信長は金のキラメキで「専制君主としての強さと派手さ」をアピールした。数々の名将がそろっていたこの時代に、金の輝きで、世間へ自分の存在アピールにいそしんだのだ。現に、こうして歴史上にその名前とエピソードが残されているわけだ。実はほかにも、照明で自己アピールをした有名なエピソードがある。安土城のライトアップだ。1581年(天正9年)7月15日、夏の孟蘭盆の夜のこと。火のパフォーマンスを行ったのだ。まずは安土城の天守閣や山腹の寺に何千何百もの提灯を吊り下げた。火の入った提灯がピッシリと吊られたイルミネーションだ。さらには側近の馬廻衆を総動員し、手に手に松明を掲げさせたのだ。ある者は新道に並び、ある者は城の堀にあるいは湖に船を浮かべ、一斉に火を灯した。当時、安土城の完成で城下町はにぎわいを見せていた。堺、京都、岐阜などから続々と商人たちが移り住んだ。庶民にろうそくの火は高価なものだったが、夜は軒から漏れる灯火の輝きが、この城下町の繁栄ぶりを見せていた。そして、それ以上に明るく輝き、人々の度肝を抜いたのが、この信長のライトアップ。現代よりもかなり暗い夜を照らし上げるという仰天発想は『信長公記』にも記されている。「山下の輝き、水に映り、言語道断の面白きありさま、見物、群衆なり」。この一大ライトアップは空だけでなく湖にも映えた。集まった人々は、この派手なパフォーマンスに驚き、喜んだ。当然費用は莫大にかかったようだが、信長は気前よくポーンと出した。自分のプロモーション費用なのだから、当然だろう。おかげで、「これだけのことがやれるわたしたちのお殿様は素晴らしい!」と民衆の心をつかみ、自分の威光を広めるのに、とても効果的だったようだ。信長は、これ以外にもフェルトやビロードの南蛮の帽子をかぶり、馬の尻に爆竹をつけて安土の町を走り回ったり、相撲をとらせて喜んだりと、民衆に対して数々の自己アピールをしてきた。なかでも、この光を使った信長の照明術では人々の心と記憶に強さと派手さのある素晴らしい君主々のイメージをしっかりと刻み込めたといえるだろう。しかし、これだけのPR活動をしながら、翌年の1582年(天正10年)には、京都の本能寺で、その生涯を閉じてしまう。皮肉なものである。